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お米の歴史

ツヤツヤ炊きたて美味しいご飯



日本の稲作の歴史はおよそ二千年。それ以来、日本人は米とともに生きてきました。 日本では「ご飯」といえば「炊いた米」を意味しますが、同時に食事一般のことも指します。つまりお米は、食事の代名詞になるほど、わたしたちの生活には欠かせないものだったんですね。
たしかに「お米のご飯」とは言いますが、「パンのご飯」「うどんのご飯」などとは言いません。

とはいえ、日本人の大多数が白米だけのご飯を毎日当たり前に食べられるようになったのは昭和30年代からのこと。
稲作の歴史とは、お米だけのご飯を食べ続けるというよりも、むしろそれに憧れ続けてきた歴史といったところでしょうか。


■稲の伝来と広がり

水稲米は紀元前350年頃(弥生時代)、アジアから朝鮮半島経由で九州に入ってきました。稲作が東北地方にまで広がったのは、紀元前後のことです。

稲作が広がった後も、当初は技術や気候の問題、後にはそれに加えて米を年貢として収めなければならないなどの事情があり、多くの人々はお米だけのご飯を毎日お腹いっぱい食べるというわけにはいかなかったようです。

多くの地域ではお米だけのご飯は冠婚葬祭などの特別な日に限られ、普段は「かて飯」(お米の節約のために雑穀や野草などを混ぜたご飯)や小麦・蕎麦・芋などを食べていました。


■調理法の変化

現在はお米といえば「白米」が主流ですが、これは玄米を精米して種皮・外胚乳・膠質層・胚などをきれいに取り除いたもの。精米技術が向上する江戸時代までは、玄米か半白米が中心でした。
また調理法も、最初から今のように炊いていたわけではなかったのです。


●弥生時代
玄米を土器で蒸したり煮たりするのが主流でした。また焼いて食べることもあったようです。

●奈良時代
この時代は甑(こしき)で蒸した「強飯(こわめし)」が主流。また蒸したお米を乾燥させた「干し飯」が携帯食として用いられるようになりました。また弥生時代よりは水分が少なく固い「固がゆ」も登場します。
しかしお米を主食としていたのは貴族層のみで、庶民はまだ雑穀が中心です。

●平安時代
料理法としては、強飯に加え、「固がゆ」の水分がさらに少なくなった「姫飯(ひめいい)」が登場。今の「ご飯」にかなり近くなりました。
この頃から貴族は白米を食べるようになってきましたが、庶民はまだ玄米や雑穀でした。

●鎌倉時代
この頃「羽釜」が登場し、煮る・焼く(水分を飛ばす)・蒸すを組み合わせた「炊く」という調理法が可能になりました。
また「ご飯・味噌汁・漬け物」という組み合わせも、この頃から広まっています。
武士は玄米の強飯(末期には白米)、貴族は白米の姫飯、庶民は相変わらず玄米や雑穀を食べていました。

●室町~安土桃山時代
農業の技術向上に伴い、庶民も米を食べる機会が増えてきました。また武士の間でも姫飯が広まり始めたのもこの時期。
特に豊臣秀吉が全国を統一してからは、お米の料理法も中国や南蛮の影響を受けたものとなり、汁かけ飯なども登場します。

●江戸時代
江戸時代初期は、戦国時代の混乱の名残や、初代将軍・徳川家康の質素倹約の重視の影響で、武士は玄米の麦飯、農民は雑穀が中心でした。しかし江戸時代中期以降は、品種改良や生活の安定から、武士は白米、農民・庶民も徐々に玄米・白米を食べるようになっていきます。
調理法の方は、「蓋付き釜」の普及で、「炊き干し」(現在の「炊く」と同じ)が定着しました。
一方、弥生時代からの煮る・蒸すといった調理法も廃れることなく、「お粥」「おこわ」として、現代まで受け継がれています。


参考文献
「コメの人類学」(大貫恵美子/岩波書店)
「ごはん食の基本レシピ」(幕内秀雄著・日経ヘルス 編/日経BP社)
「聞き書 アイヌの食事」(萩中美枝・他 編/農山漁村文化協会)
「聞き書 長野の食事」(長野の食事編集委員会 編/農山漁村文化協会)
「米なんでもブック」(食糧庁・全国米穀協会)



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